連載中の小説「夏休みの夕闇」の主人公、灰谷ヤミ(死刑囚の男、22歳)と火置ユウ(魔法使いの女、21歳)が、好きな本について語り合うだけの会話ショートストーリー。
メイン小説のサブストーリーとしてお楽しみください。
※「夏休みの夕闇」本編のあらすじや目次はこちらからどうぞ。

「私はダンテの『神曲』がとても好きなんだけど」
「知ってる。知っているし、僕も『神曲』は昔読み潰した本の一つなんだ。だって、神の愛や天国の様子が描かれているから。君が熱心に読んでいるのを見てまた読みたくなって、図書室で何度か読み返したよ」
「それじゃあヤミは、神曲が好きなんだ?」
「好きだよ。古典ではあるけれど、現代人でも楽しめるような物語的工夫に満ちている。神曲はどちらかというと『読む人を選ばない古典』だと思う。何百年も前に作られた物語なのに、全く色褪せないハラハラドキドキをくれるよね」
「そうなの!お硬い話かと思って敬遠するのはもったいないよね!特に地獄篇なんて、とてもよくできた冒険物語よ。私は前まで圧倒的に『地獄篇』が好きだった。ぶっちぎりで」
「『好きだった』……過去形?」
「いや、正確には『今でも地獄篇は好きだけど、結構最近になって地獄篇以外も大好きになった』か。ちなみにヤミは?『地獄篇』『煉獄篇』『天獄篇』どれが好き?」
「僕は今も昔も変わらず『天獄篇』だよ」
「神様を信じてるあなたはそうだろうね!……ヤミの理由は?一応聞くね」
「だって、読み進めるたびにどんどん天国の中心に近づけるから。天獄篇には最初から最後までを通して、光、愛、希望、神の気配、人が想像することのできる、あらゆる強くて輝かしいものが内包されていると思う。文章の単語や表現ひとつひとつから、それを感じるんだ。読んでいるだけで目の前が眩しくなってくる気がするだろ?」
「まあ、言っていることは分かる。分かるし、あなたがそういったものが好きそうだっていうのも、ものすごーく分かる」
「わかってくれて嬉しい」
「うん」
「……で、そもそも火置さんはどうして『地獄篇』が好きだったの?スリリングだから?」
「そうね、元々はそうだった。次はどんな世界が待ち受けているだろう……次はどんな出会いが待っているんだろう……ページをめくる手が止まらなくなるタイプの本」
「そうか、まあ、地獄篇は冒険譚みたいな色合いが強いしな……。刺激的だし、先が気になる構成になってるよね。
階層ごとに異なる地獄の様子だったりとか、罪と罰の内容とか。次はどんな歴史上の有名人が、どんな恐ろしい罰を与えられているんだろうって、怖いもの見たさみたいな感じで気になってしまう」
「それになにより、ダンテを先導してくれるウェルギリウスがかっこいいし」
「ローマ時代の詩人、ウェルギウス。『アエネーイス』の著者……か。地獄篇・煉獄篇のキーパーソンだもんね。……ってそんなミーハーな理由だったの?」
「厳しく、優しく、包容力があり、知性的……いつだって主人公のダンテを守って、導いてくれる……。好きになる要素しかない」
「…………。……で、さっきの話に戻るけど、どうして地獄篇以外もいいと思うようになったの?」
「あることに気づいたからよ」
「あること?」
「あんなにおもしろい、読む人を楽しませる、エンターテイメント作品である『地獄篇』。とうとう天国が見えてきたーっていう、夜明けのワクワク感がある『煉獄篇』。
これらはすべて、その先に待つ『天国篇』のための舞台設定だったんじゃないかって思うの。ダンテが言いたいことはすべて、天国篇に凝縮されているんじゃないかって。そのことに気付いたの」
「……天国篇のためだけに、地獄篇と煉獄篇があるってこと?」
「そう。だって、ダンテの『神曲』は、ダンテの個人的なラブレターなんだよ」
「ラブレター?」
「そう。生涯結ばれなかった、亡きベアトリーチェへ向けた、熱烈なラブレター。魂が震えるほど一目惚れした、彼の人生で唯一無二のあこがれの女性。
たくさんの資料や見聞を元に地獄篇を書いたのも、煉獄篇を書いたのも、人に楽しんでもらえるような構成にしたのも、全部は『天国篇』を書きたかったからなんじゃないかって思うの。自分の思いを1000年後の世に残すために」
「『神曲』は、神に捧げる歌でもなく、イタリア全土に自分の文才を認めさせようとした作品でもなく、ただ一目惚れした相手に愛を叫んだだけってこと?」
「そう。だって、天国篇って、他の二つに比べて熱量に任せて書いたって気がしない?『誰にわかってもらえなくてもいい、自分が受けた心の衝撃だけを言葉に残しておきたい、彼女への愛を表現したい』そんな感じがするじゃない。そのことに気づいてから……私は天国編が好きになった。
それまではよくわからなかったの。地獄篇と違ってものすごく感覚的な表現が多いし、正直何が言いたいかわからない内容も多いし、『なんかすごい』っていうふんわりとしか感じしかわからないし……。
でも、ダンテがベアトリーチェへの溢れる思いだけで、突き動かされるように書いてたのかなって想像するようになってからは、ものすごく共感すると言うか、素敵だなって思うの。私も、こうありたいなって」
「……君は僕をロマンチストだと言っていたけど……」
「うん、そうだと思うよ?」
「…………一番のロマンチストは君だよな?」
「うん、私は類まれなるロマンチストだよ!」
「……全肯定だね……」
