事後のふたり
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
水分量の高い吐息が室内に充満している。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
息をしているのは他でもない自分自身なのに、だんだんどちらの息遣いなんだかわからなくなってくる。
向かい合うふたつの踏切みたいに……周期が揃っては遠のき、また同じ周期になって……。タイミングがぴったり合ったときは本当に、ふたつの吐息が溶けてしまったかのように思えるから。
「……っ、…………、ぁ…………」
行為が終わった後の、彼女の余韻は長い。体はだらりと弛緩して、でもときおり弱い筋肉の収縮があり、そのたびに声が漏れる。
絶頂の痙攣は計器の針がバリバリバリッと何度も上限をひっかくような激しいものだけど、今のそれは死にかけた人の心電図を思わせる弱くて不規則な反応だ。
首筋にかかる彼の息だとか、ちょっとした指の摩擦だとかに反応して、あまやかに「ぴくり」と体が動く。でももう、勢いよく動けるほどの力は残っていない。
「……は、ぁ……ひおき、さん……」
ため息のような長い呼吸と一緒に、彼が彼女の名前を呼ぶ。
呼んだのはほとんど無意識に近い。愛しい人には手を伸ばしたくなる。それと同じように、愛しい人の名前を呼びたくなる。人として、いや、生き物として……いたって自然な反応だ。
彼はまだ彼女の中から出ていかない。限界まで出ていかないつもりでいる。
夜ならつながったまま眠ってしまうし、昼なら入ったままで会話を楽しみたいと思っている。額を合わせられる距離で、とろけそうな会話を楽しみたいんだ。
彼は彼女に脚を絡ませて、逃さないようにした。逃げないとは分かっている。それでもしたい、彼なりの意思表示。
『君は僕のもの』
いつだってそれを伝えているし、いつだって心の底からそう思っている。
脚が絡まったことで体が近付いて、肌がさすられて、彼女の中で小さくなった彼のものがくにゅりと押し付けられて、もう一度彼女は甘く震える。聞き取れないほど小さな振動で「ヤミ」と返事をする。
「……火置さんの中やわらかい」
「…………ばか……」
冗談を言える元気が戻ってきたのは彼の方。冗談?いや、本当のことではあるけれど……。
「……火置さん、大丈夫?」
終わった後いつも、彼はこれを言う。8割位は、本気で心配している。
だって彼女の絶頂は本当にすごいから。身体全体を使って筋肉を震わせて痙攣してしまうから。汗をダラダラと垂らして、絶叫に近い嬌声を上げるから。その後ほとんど意識を失うように……くたりとしてしまうから。
「………………だいじょうぶじゃない……」
「!」
彼にとって予想外の答えだったようだ。彼女はいつだって「大丈夫」だと言う。そんな彼女が言う「大丈夫じゃない」は、彼にとっては宝物みたいに特別なもの。
「……まだ、こうしてて……」
灰谷の胸にうずもれる火置。胸にくっつけた唇で、甘噛のようにはむはむと彼の肌をはさんでいる。彼女が一日で一番甘ったるくなるのは、行為の前でも最中でもなく、終わったあとかもしれない。
いじらしく甘えてくる彼女に、ちょっとした欲望が芽生える。……困らせたい。困った火置さんが見たい。甘く困った火置さんは、このタイミングでしか見られないんだから。
灰谷は火置の体の下のシーツに手を伸ばす。
「……火置さん、シーツすごい濡れてる」
「…………うるさい」
「ぐちゃぐちゃに濡れてたもんね」
「……ヤミのせいじゃん……」
「すごかった」
「バカ……!」
「気持ちよかった……」
「……………ばか……」
胸の中にいる火置の頭頂部を見る。黒い髪の毛の左右に飛び出した耳の先がぽっと朱に染まる。
「ねえ、火置さんは?気持ちよかった?」
とびきり甘い声で……耳元に口をよせて彼は尋ねる。
火置はゆっくり顔を上げて灰谷を見た。眉を下げて、少し潤んだ瞳で、「きもちよかった」。そう、言う。
ああ、幸せ。
……彼は思う。100回繰り返して、100回思う。
仕方がないじゃないか。誰かと溶け合う幸せなんて、初めて手に入れたんだから。僕には、一生縁のないものだって思っていたんだから。しかも彼女を逃したら、もうその幸せを感じることができないんだからさ。
そんな風に、彼は思ってる。
「……ヤミ?」
「え?」
「大丈夫?」
「どうして?」
「なんか……遠い目してたよ」
「はは、幸せを感じてたからかな……」
「……嬉しい」
「嬉しい?」
「ヤミが幸せだと、私も幸せ」
「………………」
さて、次に彼は何を思ったと思う?……答えは「怖い」だ。
幸せすぎると、怖くなる。失うのが怖くなる。失う未来が嫌になる。
幸せがずっと続くなんて信じられない。
「怖いこと言わないでくれよ」
「え、どこが怖いの」
「そういう、死亡フラグみたいなこと」
「私はそう簡単に死なないと思うよ……?」
彼の正気を疑うかの表情で、『時空の魔道士』の彼女は言う。
「そんなのわからないじゃないか」
灰谷は火置に額を寄せる。……甘えているんだ、彼も。人に甘える機会がなかった彼が、唯一甘えられる相手に。
「今まで散々示してきたのに。『私は強い』って。まだ信じられない?」
「君は強いってこと……頭では分かってるんだけどな。そもそも僕は、『強いからこそ君が好き』みたいなとこは確実にあるから」
「……正直者。望むところ」
彼女は『強い』と言われるのが好きだ。自分の生き方を認められている気がするから。もっと強くあろうと、背筋が伸びる感じがするから。
彼を映す火置の瞳は鋭くきらめく。……まだ二人は、額をくっつけたまま。
「君が『私は本当はか弱いの。甘やかしてかわいがって』……みたいな人じゃなくてよかったよ。そういう人とじゃうまくいかなかったかも」
「あなた……ホント、モテそうなのは見た目だけよね……。『守ってあげたいような可愛さっていうのがよくわからない』とか、『僕は君を幸せにできない』だとか、『君は整理整頓が壊滅的に下手だ』とか……女子に嫌われそうなことばっかり言うし……」
「えっ、僕のこと嫌った?」
ぱっと額を離して、灰谷は目を丸くする。……本気で焦ってる、この男。
「まさか……」
「……よかった……」
心底ホッとした顔をする彼。
「変な人……」
やれやれ、といった表情で、火置は灰谷を見た。でもその瞳には、愛しさが満ちている。
彼女は彼の頭を抱き寄せる。私のかわいい、困った正直者さん。彼女の手は、ふわふわと彼の頭を撫でる。優しく穏やかな時間が流れる。
二人は黙る。沈黙だって愛おしいから。彼女は彼の髪の柔らかさを感じ、彼は彼女の生温かい体温を感じる。こんな時間が永遠に続けばいいのに。でも、離れるからまたくっつけるんだよって、以前彼女は言っていた。
「そういえば、パン焼けたかな」ふと思い出したように、火置が言う。
「朝パン焼き機を仕込んでたんだっけ……そろそろリビングに行く?」
「うん、お腹空いてきちゃった」
「……結構激しく長時間運動したもんな」
「っ!」
「今日の火置さん、かなり頑張ってたよ。あれだけ大胆に腰を動かしてたらいいエクササイズになりそうだなあってくら……いて!」
パシッと彼女が彼の頭を軽くはたき、ベッドからするりと抜ける。彼は、彼女から抜けてひんやりしてしまった自分の局部に寂しさを覚える。
そんな彼の思いはつゆ知らず、火置はさっとワンピースを上から羽織り、灰谷に向かって勝ち気に笑う。
「お先!」
「なっ……!ちょっと待って!」
軽やかに屋根裏の階段を降りる彼女を、彼は目を細めて追いかける。天窓から差し込む太陽の光がとてもまぶしいから。
そして、全知全能の絶対神を象徴するような夏休みの太陽に向かって密かに強く、願いを込める。こんな日々が永遠に繰り返されますように、と。
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