彼と彼女のバレンタインデー
リビングの壁にかけたカレンダーを確認する。この夏休みが始まってからというもの、一度も欠かしたことのない私の日課。……って、ん?
「あれ、今日って……」
「どうした?」
「2月14日、バレンタインデーだ!」
「へえ、そうだったんだ。あんまり季節のイベントだとか、気にしたことがなかったな」
私もそうだ。少なくとも……10年はバレンタインデーを意識せず生きてきた。
でもせっかくだし、今日は普通の女の子がするような事をしてみようかな。だって、これが終わったらもう二度と来ることのない、人生最後の夏休みなんだし。
……というかバレンタインデーなのに夏休みって、変だな。一人で笑いそうになる。
「ヤミは甘いもの、食べられる?」
「え?食べられるけど?……って、まさか…………」
「……チョコケーキ、作っていい?」
「!!え、本当に!?」
「すごく喜んでくれるじゃん……やりがいあるなあ」
ふふふ、なんて可愛いの。ヤミのこういう素直なとこ、本当に好き。頑張ってビターなブラウニーでも作ろうっと。
駅の近くのスーパーに行けば材料はそろうはず。私は急ぎ足でスーパーに向かう。
ブラックチョコレートにココア……ある。バターは家のが少ないから足して……薄力粉と牛乳は家ので充分かな。ベーキングパウダー……あるね。卵にナッツ!……あった!完璧だ。ちゃんとした美味しいやつが作れる。
私が普通にバレンタインデーを楽しむなんて、信じられない。でもここでの生活はヤミと二人だし……たまにはこういうのもいいかなって。さてさて、頑張って作るか!
オーブンに種を入れて5分くらい経つと、家中にチョコレートと焼き菓子の甘く香ばしい香りが満ち溢れた。「うわあ、いい匂い……」とヤミがオーブンに近づく。……かわいい。
「あ、そうそう。ヤミに聞きたいことがあったんだ」
「ん?何?」
「ヤミって、バレンタインデーはどうだったの?たくさんもらってた?」
「うーん、僕は……」
「あ、ちょっと待って!ヤミが学校生活でどんなバレンタインデーを過ごしてたか当てるわ!」
そうだな……。『自分で作った神様を信じてる狂人』で『歩く悲劇』のあなたは、学校でみんなから避けられてたって言ってたよね……。でもヤミの『見た目』は魅力的。と、言うことは……。
「違う学年の女子からはたくさんもらえてた……どうかしら?」私は、自信満々に答える。するとヤミが目を丸くした。
「すごいね!なんでわかったの?そのとおりだよ」
「だってヤミって……見た目で人を引き付けるじゃない?でも……神様の話をしだすとアウト」
「アウトって……いや、何も言わないよ。確かにそのとおりだから。クラス……いや、学年の女子からは露骨に避けられてたなぁ。話しかけるとよくわかんない宗教の話するから気持ち悪いし、近づくと死ぬって。実際死んじゃった子もいたし……」
「……不登校待ったなしのキツイ嫌われようね……」
「でも、名前も知らない他学年の子からチョコレートをもらっても、全然嬉しくなかったよ。手作りとかもらっても、どうしたらいいかわかんなくて困るし……。結局食べずに捨てちゃってたな」
「確かに……お返しも大変だしね」
「うん。だから、どちらかと言うとバレンタインデーは憂鬱だったなあ。こんなふうに、好きな人からチョコレートをもらえるならすごく嬉しいんだけど」
「ふふふ。これからは一生楽しいバレンタインデーを約束するよ」
「……こんなに幸せでいいのかな」
「……本当に、ね」
普通の幸せに慣れてない私たち。こういうところ、あなたが私と似ていてよかった。おんなじ温度で、幸せを感じられる。みんなが当たり前に過ごす何でもないことも、もう二度と巡り会えない宝物みたいに大切にできる。
そうこうしているうちに、ブラウニーが焼き上がる。甘くて香ばしい、幸福の香り。幸せをいっぱい吸い込みながら、さあ召し上がれ。
「ハッピーバレンタイン」
「ありがとう、いただきます」
「私もひとつ食べちゃおっかな」
「せっかくだし、一緒に食べようよ…………うん、すごく美味しい!火置さんってパンだけじゃなくてお菓子も作れるんだね!」
「ホントだ、おいしい!ふふっ、気に入ってもらえてよかった!」
あなたのふわっとした笑顔を見ると、心がとろけてどうしようもなくなってしまう。今の私の体の中、原形を留めないドロドロ。まるでさっき溶かしたチョコレートみたい。
外側の殻だけで、どうにか形を維持しているの。これじゃ、ちゃんと立っていられないよ。コンコンってノックしたら、ヒビが入って中身が出てきちゃう。
「……このチョコレートと一緒に、君も食べてしまいたい」
「……!……リボンでも巻いて、火置さんをプレゼントしたほうがよかった?」
「!!なんだよそれ……!僕の煩悩がものすごいことになってるよ、今……!」
「あははっ、灰谷ヤミも普通の男だったね」
「当たり前だろ……僕をなんだと思ってるんだよ」
「ふふふ……じゃあ今日は、火置さんを灰谷くんにプレゼントするね」
「火置さん、これ以上やめてって!人よりちょっとだけ豊かな僕の想像力が暴走する……!」
あれ?なにこれ、いつもと反対じゃない?
どうしよう、おもしろい。ヤミかわいい……。もっとドキドキさせたい。…………そうだ。
口の中に、さっき砕いた板チョコレートのかけらを放り込む。身を乗り出して、あなたの顎に指を添える。チョコレート味の、甘いキスをあげる。口の体温で溶けかかったチョコレートと一緒に、はいどうぞ。
舌が絡まると、体の芯が痺れちゃう。キスだけで天国に行けるなんて、私って本当にオトクな体質をしてる。あなたもドキドキしてるといいな。キスで心がギューッとなる感覚って、他のものではなかなか味わえないもんね。
唇を離すと、チョコレート色の唾液の糸が二人の間につながっていた。なんだかちょっと背徳的。
ヤミの顔を見る。金色の瞳の奥に、炎が見える。彼の、昏くて底しれない炎。私は彼の瞳の奥にある炎がとっても好き。私の心臓を焦がす、私だけの炎。
「……今日は、お好きにどうぞ」
あなたの煩悩を、上手に掻き立てられたかしら。大好きな大好きなあなた。月まで届くほどの大きな愛を込めて、ハッピーバレンタイン。
(夜編へ続く)
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