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第一章 夕闇の出会い
第二章 神様
第三章 探索
第四章 夢
第五章 闇
最終章 二人の夏休みへ
ジストニア
そう、どうしても聞きたかった。ピアノの囚人のこと。彼が死刑になった理由。
気が弱そうで、繊細そうで、人を殺せるような人には見えなかった。彼はどんな罪を犯したのだろう。どうしてあんなにも、死にたがっていたのだろう。
「……あの……ピアニストの彼は……どうして死刑になったの?なぜ、廃人みたいになってしまっていたの?」
「なぜ死刑にって……そりゃあ、死刑になるようなことをしたからじゃないですか。当然のことです。『人を殺せば罰せられる』。小さい頃習いませんでしたか?」
つまらないことを聞かないでください……と言わんばかりの表情で、カミサマは答えた。
違う、そんな当たり前の事を聞きたいんじゃない。彼の人生に何があったか、どうしてここに来なくてはいけなかったのかが、どうしても知りたい。
「そんなに聞きたいなら教えます。隠しているわけではないですしね。彼が廃人になった理由は、彼の死刑にも繋がる話です。彼はね『ジストニア』なんですよ」
「……ジストニア?」
「知りませんか?スポーツ選手だと『イップス』なんて言われ方もしますけど。ポップな響きの割に、結構な難病です。筋肉の痙攣や硬直で、体が思うように動かなくなる病気です」
彼が、ドビュッシーの月の光を膝の上で弾いている最中にいきなり震えだして叫んだことを思い出す。あれは、ジストニアでピアノがうまく弾けなくて発狂していたということだったのか?
「お気づきの通り、彼はピアニストでした。将来有望……というか、すでに結構有名になりつつあったピアニストの彼ですが、大事なコンクールの直前に『動作特異性ジストニア』に罹ったんですね。
ジストニアの残酷なところってね、『訓練を続けてきた高度な動作に対して』しか痙攣が起こらないことにあるんです。つまり、日常生活は普通に営める。痙攣が起こるのは『ピアノを弾いているときだけ』なんです。
生まれてからずっとピアノ人生でピアノで食っているピアノ馬鹿がピアノだけ弾けなくなる……いったいどんな気持ちなんでしょうね?あなた、想像できます?」
全てをピアノに捧げてきたのに、ピアノだけが弾けなくなる……。
彼の手がかさぶただらけで痣だらけだったことも、理解できてしまった。自分で自分の手を叩き潰したくもなるだろう。他のことはできるクセにピアノだけが弾けない手なんて、自分についていても意味がないだろ!……って。彼の深い絶望が、心に重くのしかかる。
「…………でもね、彼は強い人でした。難しいと言われていたジストニアを克服したんです。
もちろん、度重なるリハビリによってブランクがあり以前と同じように弾けたわけではないですが、それでも、自分のコンサートを開けるくらいまでは回復しました。動きにくい指はあえて使わないようにしたり、血の滲む努力と工夫をしていたと聞いています。
作曲家としても優秀でしたから、いくつもの美しいピアノ曲を書きました。それこそ、同じ病気の人でも弾けるような、苦しむ人々の希望になる音楽を。
『難病を克服したピアニスト』なんて言われて、一時期テレビとかでも取り沙汰されていました。別の世界にいたあなたは知らないでしょうが。とても前向きに頑張っていたと思います。彼は諦めなかったんです」
「それが、どうして……」
するとカミサマは、今日一番の残念顔を作って、ため息交じりに話を続けた。
「でも、もう一回なっちゃったんですよ。ジストニアに。しかも今度はもっとひどかった。全部の指が利かなくなりました。
彼は治ったり再発したりを、合計3セット繰り返しました。色々な手術をしました。でもジストニアって、これと言った確実な治療法が確立されていないのです」
……不幸。これほどまでの不幸って、あり得るのだろうか?
やっぱり私は神様なんて信じない。誰よりも頑張っている人に降りかかる、乗り越えられない試練……見て見ぬふりの神なんて、いない方がましだ。そんな神がいるなら、私が神を殺したい。
「それで……ま、簡単に言うと、さすがにおかしくなっちゃったんです。鬱状態になった彼は、ずっと支えてくれていたパートナーの女性を刺し殺しちゃったんですよ。それで、捕まってここに来た。
彼の場合、するなら芸術家らしく『自殺』かなーって思ってたんですが『殺人事件』は予想外でした。でもそれだけ、自分を制御できない状態まで追い詰められていたってことなんだと思います、はい」
「あなたは……不幸な人間を観察して楽しんでいるの?」
「認識の相違がありそうなんで、この場で正しておきます。楽しんでいるは楽しんでいますが、愉悦的楽しみ方ではありませんよ。知的好奇心的な楽しみ方です。こういう状態になってしまった人がどうなるのか、を研究しているんです。
このケースでは新しいパターンが見れたので、私はとても満足しました。予想を外されるって、結構気持ちの良いものですよね。私にもまだ伸びしろがあるんだーって思えますから」
……………。だめだ、気分が悪い。私は人の気持ちに共感しすぎてしまって、特にマイナスの感情を考えると体調が悪くなったり必要以上に気持ちが滅入ったりすることがある。『死にたい』と言っていた彼の気持ちに強く共感する。彼の立場だったら、死を考えるのは当然だ。
そんな彼に、『4回目こそはジストニアが治るかも』なんて気軽なことは言えない。こういうとき、周囲の人はどうやって彼を支えたらいいんだろう。
ちょっとした気持ちのすれ違いから、彼の殺人は起こったのかもしれない。彼の恋人は、たった一言、彼に掛ける言葉を間違えた……もしくは、表情一つかもしれない。彼女の些細な何かに彼は絶望を感じて、彼は彼女を殺してしまった。
きっと彼はもう、恋人を殺したことを悲しむことすらできないくらい、追い詰められていたのではないだろうか。
「……大丈夫ですか?あまり顔色がよろしくない。……そんなんでよく、色々な世界を回って冒険できますね?つらくありません?」
「…………だから、私はあまり人に入れ込まないようにしている。出会った人一人一人の気持ちに寄り添ってたら、私死んじゃうよ。クールにいることが私の生存戦略なの」
「まあ、そういう生き方もあるんでしょうね。人生損してますけどね。人とのつながりって楽しいのに。誰かに寄り添い頼ってもらって、私自身がその人にとってなくてはならない存在になる……。ものすごく『愛』を感じられて気持ちがいいですよ?
そう重大に考えず、もっと気軽に人と交流しなさい。あなたは昭和の男性映画スターばりに不器用です。そのスタンスで居続けるといつか痛い目を見ますよ」
「もういまさら、どうしようもないでしょ……性格なんだから。……さ、もう帰らせて。聞きたいことは全部聞けた。ありがとう」
「ええ!いい時間でした。私の提案……10日間でじっくり考えておいてくださいね?ごきげんよう、また会いましょう」
こうして私には大きな『宿題』が与えられ、カミサマとの初めての面談が終了した。
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